《3・11みんなの体験談》編集部しんしん編

 東日本大震災発生時、私は屋外の広場に置かれたベンチに座り、友達と話をしていました。
 突然足元から強い揺れを感じ、思わずベンチから降りて地面にうずくまりました。揺れはその間もさらに大きくなり、近くのコンクリート造の建物からは今まで聞いたことのない、カツカツといった乾いた音も聞こえてきます。
 私たちは建物のガラスが割れて飛んでくるのではないかという恐怖から、広場の真ん中あたりまで移動しました。同じように広場にいた他の人達も、近くの建物を避けてしゃがみ込む様子を目で追いながら、揺れが収まるのをひたすら待ちました。張り詰めた緊張感の中、長く続く揺れによって側溝の水がチャポチャポと逆流する音が聞こえてきて、さらに不安な気持ちになったのを覚えています。
 広場は自宅から徒歩圏内の比較的近い場所にあったため、互いの無事を祈って友達と別れると、急いで帰宅することにしました。途中家族に電話をかけると、1本目の電話はつながったのですが、すぐ後にかけた2本目の電話はもうつながらなくなっていました。
 帰路にある細い道は、道幅の割に交通量が多く、車とブロック塀に挟まれた逃げ場のない狭い歩道には電柱まで立っています。その電柱から低くのびる、たわんだ電線が余震で揺れる横を、ドキドキしながら通り抜け家路を急ぎました。
 自宅のリビングの大きな本棚がどうなっているか心配していたのですが、天井まで突っ張っていたのが幸いしたようで、棚の手前に置いていた物が少し落ちた程度ですみました。キッチンのカウンターに置いていたTVも、台すれすれのところまで移動していたものの落下はまぬがれ、幸い被害はほとんどありませんでした。
 私が帰宅した時分は地震直後だったためか、歩道越しに見える幹線道路の車もまだ流れていたのですが、そのうちやはり大渋滞が起こり、全く動かなくなってしまったようです。電車も止まったため、大量に発生した帰宅困難者を、近所の小学校でも受け入れたという話を後で聞きました。

そして起きた原発事故

 翌日は土曜日ということもあって、家から一歩も出ず、朝からずっとTVをつけていました。そんなとき、あの原発事故のニュースが流れたのです。くり返し流される映像と、事故を伝えるアナウンサーの声の調子が、大変なことが起きたのだという実感を強くさせました。
 昨年3月に新型コロナで発令された緊急事態宣言直後のような、この先どうなるのだろうという漠然とした不安が、私だけでなく街中にあふれていたように思います。実際10年前のこのときも、店という店からトイレットペーパーは姿を消し、水や米などの食料品が並ぶ棚も、隙間が目立つ状態が続きました。他にも体内の放射能の排出に、うがい薬が効くらしいという噂が流れたことで、うがい薬も品薄になり、飲む人まで現れたことから『うがい薬を飲んでも効果はないので飲まないように』と注意を促すニュースが流されたりもしました。
 当時SPEEDI(スピーディ)というシステムで、風向きなどから放射能の汚染範囲が予測できると期待されていたのですが、実際に公表されたのは事故から何日も経った後でした。その間、噂が噂を呼び、放射能汚染を心配して東京からも避難する人が私の周りでもいました。それぐらい誰もが不安な状態だったのです。

あのころと、10年後の今を比べて

 10年前の、あの日こわごわ通った道の電柱は地中化され姿を消しました。近年では公共の建物だけでなく、マンションでも、非常食の備蓄や緊急時の非常電源などを備えた建物も増えています。
 当時、地震の恐怖がさめやらぬ中で、非常用リュックの通販やつくり方が連日紹介されていて、私もそれらを参考にしてつくりました。
 折りしも10年の節目を間近にひかえた先月2月13日には、東日本大震災の余震とみられる震度6強の地震が観測されたこともあり、久しぶりに当時つくった非常用リュックを引っ張り出してみました。食品はアメ程度しか入れていなかったため、それほど大入れ換えする必要はなかったのですが、手回しラジオなどは壊れていないかを確認する良い機会となりました。

 ありきたりですが、非常食や持ち出しリュックの準備、避難場所の確認など普段の備えが、非常時にさらなるパニックを引き起こさないためにも大事なのだと思います。

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